東京都江東区のマンションで女性が殺害の上バラバラにされた事件の判決公判で、東京地裁裁判長は被告に無期懲役判決を言い渡した。
今年の5月21日から裁判員制度が始まり、私自身も、こうした内容を真面目に考え判断する場に立たされる事になるかもしれないのだが、私の中で、この事件の判決は、どう考えても死刑である。
実際に自分が裁判に参加したような場合に目や耳を通じて脳に伝わる情報と、今私が報道や文字を通じてしか知りえない情報とでは、内容は勿論、その重さが違うわけだし、犯人といえどもひとりの人間に対して、軽々しく死ねと言えないのは理解している。
私は罪を犯した人、特に被害者を死に追いやった者全員について死んでしまえばいいと思うわけではない。
が、時として、死なせちゃったら死刑になるんだってのを、この国全体のきまりにでもした方が、むやみな犯罪が減るのではないかと思うし、人を殺した罪というのは、やはり自身の死をもって償うしかないのではないかと思っている。
それが1人目だから、そこまで残酷であるとは言えないから、極めつけは前例がないという理由で、死刑以外の判決を聞く、被害者に残された人の無念は誰がどう救うというのだろう。
事故的に当たった手の力で突き落とされるような結果になったにしろ、御身大切な為に切り刻まれて死の形すら残して貰えなかったにしろ、遺族の悲しみは同じように底なしに深いのだ。
反面、相手が死刑に処されたところで、自分の愛した者が生きて戻らないのも事実。
それでも死刑を無くすべきという意見に、私は賛成出来ない。
それは、死刑と無期懲役との差があまりに大きく、無期という言葉が名ばかりな点にあるのかもしれない。
こんな不景気な世の中、金が稼げないからと些細な犯罪をわざと起こし、刑務所に屋根とご飯を求めて行くような人や、なんたら真理教の教祖のように、何もしゃべらずタダ飯食らってるようなのと同じで、生かしておく為に食べさせてあげているのも、本当は腹が立つのだが、確実に死ぬまで刑務所から出られない終身刑が必要に思う。
今回の被告の場合、彼は、自分の現在の生活を守りたくて彼女を殺し、刻み、目の前から消したのだ。
捕まったら、世間を堂々と歩いて生きていけない。
その点で言えば、彼の人生は既に終わっている。
本心かどうか実際に聞いてないからわからないが、本人は死刑にして欲しいと望んでいる。
だったら尚更死刑にすればとも思うが、死んだ方がマシだとか楽だって気持ちなら、生かされている方が本人にとっても辛いわけで、それがいくらかの償いになるのかもしれない。
弁護人曰く、彼は反省しているらしい。
もし、本当に反省をしているとすれば、いや反省していなくてもそうだと信じたいが、一生彼女にした行為は自分の中から消えないはずである。
少なくとも、刑務所にいる間は、なぜ自分がそこにいるのかを思い考える事が可能な、まともな類の人であればある程、生きている間中、苛まれるだろう。
けれど彼は無期懲役で済んだ。
私が理解出来ないのは『犯行は冷酷だが、残虐極まりないとはいえない』という裁判長の言葉である。
裁判長は被告の動機については極めて自己中心的で卑劣、酌量の余地はないと非難。
その上で、死刑を言い渡すには『相当強い悪質性が認められることが必要となる』と指摘したそう。
『抵抗できない状態の被害者に包丁を1回突き刺した犯行は冷酷だが、執拗な攻撃を加えたものではなく残虐極まりないとまではいえない』らしい。
思いっきり殴られて、これ以上抵抗したら殺されると思って無抵抗でいた人間を、縛り上げて動けないように出来たから1箇所を1度刺して殺せただけで、抵抗されるような状態なら、夢中になって何度もあっちこっち刺して殺すもんじゃあないのか?
死体損壊・遺棄については、『量刑に十分考慮するべきだが、被告が死刑を求刑されているのは殺人罪に問われたから。死体損壊などの行為を、殺害行為に比べて過大に評価することはできない』とした。
この時点で、遺族の恨みは被告じゃなくて裁判長に向いたんじゃあないのだろうか…。
また、拉致した後に当初の目的だったわいせつ行為はしていないというのも無期懲役を選んだ理由に挙げられているが、殴って拉致監禁された時点で、彼女は死に値する恐怖を味わっていると想像するのに、犯してないから軽くなるって、どういう考えなのだろう。
死刑か死刑じゃないかの差は、それでも生かしてあげたい、と思えるかどうかなのだと思う。
私には、その要素が見つけられない気がする。
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