駄々っ子
また、無差別な殺傷事件が起きた。
怨みを買った覚えもなく、ふって沸いた事故でもなく、ましてや戦争中でもないのに、外に出たらどこで突然に殺されてしまってもおかしくない世の中を歩くのに、自分だっていつ何時そうならないとも言い切れず、目の前で同じニュースを見て聞いている子供に向かって、一言の注意も見つからない自分が、何とももどかしい気持ちになった。
一体、他人の人生を奪っておきながら、誰でも良かったという言い草はなんなのだろう。
誰でもいいなら、自分の身を、出来れば誰一人巻き添えにすることなく、どこかでどうにかすれば良いではないか。
そんな馬鹿な人間にさえ、その身がどうにかなれば、泣いて悲しむ親なり身内なりがいるだろうに。
生きている事に躓いて、うまくいかない事ばかりが続いた時に、誰でも傷つける事が許されるなら、世の中、怪我人と死体だらけになる。
だいたい、自分の怒りの原因にあたる人なら殴れば気が晴れるというのもわかるが、まったく自分に関係のない人に対して何かしたからといって、自分の気持ちは救われるのか?
そもそも何をもって、人は、自分を不幸だって決め付けるのか。
仕事上のトラブルや不安、人間関係のもつれ、家庭環境の悪さ、生活水準の低さとあげればキリがないが、お金が余る程あって、広くて大きな家に住めば幸せなのか。優しい人に囲まれて、何不自由のない生活なら不満はないのか。
私の育った家庭は、子供心にわがままも控える程、余裕のない家だった。家族はつつがなく暮らしてはいたが、あれやこれや不満もあった。ああじゃなければ、こうならばと毎日のように思っていたかもしれない。
けれど、無関係な誰かを傷つけたいと思った事は一度もなかったし、今も無い。
それは、そうしたからといって、それでは解決にならないとわかっているからだ。
私には、ああいった事件を起こす人と、道端にひっくり返って駄々をこねる子供とが重なって見える。
前にも記した覚えがあるが、自分の思い通りにならないと、ひっくり返って駄々をこねる子供というのは、ある程度家庭環境に恵まれているのだ。我慢を知らず、騒げば手に入るという味をしめた子供。騒がせない為にすぐに与える親や親戚を持つ子供である。
先にも述べた通り、私の家は貧乏だったから、そんな無駄な労力は使った事がない。
そんな事より、どうやったら欲しい物が手に入るのか、他の方法を考えたものである。考えてるうちに、欲しくなくなるものもあったろうし、ホントに手に入らないんだって悟ったものもある。人には分相応があるのは子供にだってわかる。
騒ぎを起こせば振り向いて貰える。
勿論、振り向いて貰った人々の反応や、それが招いた結果に考えが及んでいたら、はじめから事件など起こせないとは思うが、振り向いて貰う迄しか考えてない。
人はお互い様な生き物なのである。
彼らは、相手の事を考えられないから、相手も自分の事を思い考えてくれないのだと気づいていない。
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