カテゴリー「書籍・雑誌」の5件の記事

本 (今日のテーマ)

BlogPet 今日のテーマ 本
「読書の秋!あなたのオススメの一冊を教えてください。」
 『山へ行く』萩尾望都さんの単行本…漫画です。

 短編集でどれも面白かったんだけど、久しぶりに、これぞ萩尾望都って世界を叩き付けられて、暫く立ち上がれなかったのが『柳の木』である。
 読んだ後、巻末にあった小学館のWEBアンケートに意味もなく答えている自分がいた。ああいう作品を目にしちゃうと、妙に何か自分もしなくちゃって、焦るというか、そわそわ感が身体を巡ってしまうのである。

 最初から最後まで一切の言葉を発する事なく、柳の木の元を動かず、見上げる土手の上を過ぎてゆく人々の時の流れにも言葉という音がないのに、声まで聞こえてきそうな情景である。
 どうして彼女が心を残した姿となり、ずっとずっと彼を見守るようになったかという説明はない。
 小さな彼は、色々を経て大人になり、壮年を迎えた頃、彼女に話しかける。彼は、ずっと彼女の存在を感じていた事を告げ、彼女に安心を与える。
 『ぼくはもうだいじょうぶだよ お母さん』
 彼女の目から大粒の涙が溢れ、柳を揺らす風に同化してしまったように彼の前から永久に消え、残された彼は、彼女のかわりに柳を抱くようにして泣くというお話。

 いやー…まいりました。

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日本語って難しい

 『ぱど』というフリーペーパーがポストに投函される。毎週見てると同じような記事ばっかで飽きるのだが、久しぶりにパラパラとめくってみると、結構新鮮に記事が目に入ってくるものである。
 同時に『ちぇ、先々週見てれば良かった。美容院情報が一杯載ってるんじゃん…』とか、毎週チェックしていないと、いざ使おうという時に役に立たないジレンマも感じたりする。

 と、そこに『Pre De』というデニーズ系のレストランの記事を見つけた。デニーズ系というか、元々ここはデニーズだったんだけど、ある日訪れたら、この店に変わっていた。
 ま、デニーズの親戚には変わりないので、馴染みのメニューはあったりするし、既に何度か利用させていただいている。

 1度、混雑してる様子もない時間に利用したにも関わらず、私の注文した物が、連れは完全に食べ終わってから運ばれてくるというアクシデントがあった。事も無げに
 『大変お待たせ致しました』と言うので、
 『ほんとね、今キャンセルしようかと思ってたの』と言い返したら、店長がすっとんで来たっけ。会計の時も、待ち構えたように店長が出てきて、再び平謝りした、という店である。

 さて『ぱど』の話題に戻ろう。

 『ランチタイム限定 お得な料理長のおすすめセット! 云々かんぬんで850円』……これが、どう見ても『お得な料理長』の『おすすめセット』という字並び。これでは『料理長』が『お得』に見えるではないか。料理長をお得にしてどーする。お得なのは『料理長おすすめ』の『セット』だろうに。などと、姑の嫌味だか小言のような感想を持ちつつ、じゃ、どう並べたらセットがお得になるのか、暫く考えてしまった。
 『お得』を噴出しにでも入れるか、『お得』の字を他と大きさを変えるかだよねえ。。。。うーん、日本語って難しい。

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トリッポンのこと

 私にまだ子供がいない頃は、絵本にも大人用・子供用があると思っていた。それは、デザインの学校を出て、イラストを描くのが好きだった私が、自ら製作した絵本を出版社の方に見て戴いた時、『これはどなたが対象ですか?』と聴かれたせいもある。そんな質問の答えを用意していなかった私は、出任せに近い感情で『大人です』と答えたと記憶している。
 私にも子供が生まれてからは、他の子供にも目がいくようになり、ちょっと意見が変わってきた。
例えば『ジブリ』の作品は、子供から大人迄それぞれの思いで見続ける事が出来る。子供の頃に見ても、大人になって再び見ても、それは古びた思い出にはならない。もっと言うなら、日本語もままならない小さい子が、『もののけ姫』をじっと見つめているのを眺めていると、大人からすれば、こんなに難しい内容わかるのかなと思うのだが、何か染み入るように、心で感じているようにも見える。
 そしたら、ちょっと大人っぽい絵本も、お母さんが、やさしく気持ちを込めて読んであげたら、子供もきっと、感じるんじゃあないのかな。

 『トリッポンのこねこ』は、漫画家・萩尾望都さんが文章を書き、こみねゆらさんの絵で贈る絵本である。
 『萩尾』さんは、私が小さい頃からずっと読ませていただいている、まさしく大人をターゲットにした大人の漫画家で、この本の題名と作者の名を見て、本を開く迄、どんな言葉が飛び出すのかと、どこか違う意味で、どきどきした作品である。そういう意味では、私は大きく裏切られた。辛口の大人をターゲットにした絵本と思いきや、そこには、なんともファンタジックな世界が広げられていた。
 やわらかそうな金髪の『トリッポン』は、まだ手足がほそーい男の子で、『かえる』って名前の白い子猫を飼っている。『かえる』が、引っ越したばかりの家を飛び出して行方不明になってしまったので、それを探しに出かけて、無事に連れて帰る迄のお話。勿論、めでたしめでたしのハッピーエンド。でも、どうして子猫の『かえる』は家出してしまったでしょう…。
 2本足で歩く猫なんて、私の夢にも出てきてくれないかしら、と思う程素敵に描かれている。猫が2本足で立って歩いたら、きっとあんな格好で歩くに違いない、と確信に近い思いが持てる立ち姿である。まるで竹串に絵の具をつけて描いたような、やさしいタッチの『ゆら』さんの絵が全編に広がる、不思議な世界に、是非足を踏み入れてみて欲しい。

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嘘ならもっと

 嘘をつくのが得意な私は、子供に対して、嘘をつくなと言う事が出来ない。
 人が嘘をつく時、理由がないというのが稀なせいでもある。何等かの原因があって、嘘は口をついて出るのである、と私は思う。

 あの子とつきあってきて、早12年半の時が経つ。思う余りに色々な事に口を出して、たしなめて、チック症状が出る程で、どうにも褒めて育てるというのは、私には難しい芸当のようだ。褒め慣れないもんだから、いざ褒めようとすると、まず、こちらが照れてしまって滑る羽目になる。

 子供相手に感情的になるというのはおかしいのだろうか?ハナから他人である旦那に対して剥き出しに出来ない感情は、自分の血を分けた子に対しては、恐ろしく素直である。

 多分、私の導火線の短さが身に沁みる彼女は、逆鱗に触れる事を避ける為に、その場限りのごまかしにかかるのである。
 本音で言えば、嘘をついたかどうかの問題ではない。自分のついた嘘の行き場をなくさないで欲しいのである。
 もうちょっと高度な嘘というか、もうちょっと思いやりを感じる嘘というか、人間だから、ポロっと出ちゃったって言葉もあるとは思うのだが、何にしろ、自分の吐いた言葉の責任持って欲しいのである。
 言っちゃった事も無かった事に出来るおばかさんには、嘘なんてつけないんだからっ…て何度言った事であろう。

 その場を逃れる為の嘘は、どうやら私の前だけではないらしい、という事が昨夜判明した。
 「提出物がまっっっったく出てこないんですよ」という先生と
 「家で確認すると、出来た、出したと言うんですが…」と言う私が、電話回線を挟んで頭を抱える状態である。
 先生に嘘をつき家に戻り、戻った先でまたごまかし、一体彼女はどこに行こうというのか………

 その場を正すという事は、正直誰にでも出来る事である。現にその対策として、提出物はすべて私が目を通し、ハンを付き、学校から先生のハンが無い場合は家には入れないという約束にした。それはそれで、効果はあるとしても、彼女の性根が改善されるというわけではない。

 今はっきりわかっているのは、彼女側は、さほど真剣には受け止めていないという事なのである。
 どちらかと言えば、監視され慣れしていて、その監視の目が外れると、タガが緩んでしまったかのようになるのである。
 自分自身がしたい、しなければと思うような気持ちがない限りは、先生も私もそれぞれの側の体裁を整えている事に過ぎない。

 その気のない人をその気にさせる薬がないというのは、40年の人生で学んで来た事ではあるが、彼女のその気を出させる魔法の言葉を日々探す私である。

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昼も夜も百億はいらないが

百億の昼と千億の夜

 少年チャンピオンに連載されたこの物語に心を奪われてから何年経つのだろう…いえ、ちゃんと数えればすぐわかります、そうです、数えたくないだけです。

 数年前、改めて、単行本で買って持ってたこの本を引っ張り出し、読み返して、こんな複雑な話だったっけ?なんて思いつつ、当時は、きっと脳みそじゃなく、感性で読んでいたのだと理解する。
 なぜなら、今でも恋焦がれる阿修羅像について(いや物語の中では阿修羅王なのだが)主役というより準主役以下の登場コマ数だったり、それほどステキにも、万人を惹きつけるような憂いも感じない。
 単に私が大人になってしまったせいもあるのだろう。実際、物語を読んでから、実像にお目にかかれるまでに経た時間のせいもあるだろう。私の想像力がより、その姿を美化したのを感じる。
 萩尾望都さんの作品を読んで育ったと言って過言ではない私は、その作品価値を下げたいのではない。むしろ、今読み直して、もっともっと感じる事があったり、数十年後の今、記憶に残った部分の他にもまだまだ彼女が伝えたい部分があったのだと感じているのである。

 ともあれ、今日も興福寺の国宝館に静かにたたずむ阿修羅像は、私の中で、時折、強く心に呼びかけてくる存在なのには変わらない。
 私は、この像の前に色々な知人と立ち、様々な報告をしてきたのだが、いつも最後に告げるのは「また来るから」という言葉である。私が生まれるずっと前からそこに立ち、私がこの世からいなくなった後にもまだずっと立ち続けるだろうと思われるこの像に、私は、あと何回逢いに行く事が出来るのだろうか。
 年に何度か改変されるJRのCMの「そうだ京都へ行こう」というフレーズを耳にするたび、あたしゃ奈良いきたいなー…とそそられるのである。

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